StatsBeginner: 初学者の統計学習ノート

統計学およびR、Pythonでのプログラミングの勉強の過程をメモっていくノート。たまにMacの話題。

古典を読もうとする学生に「教科書から読め」と諭す必要はないと思う

昨日、ツイッターで「大学生のための100人100冊」という、いわゆる「必読書リスト」を紹介するツイートが流れてきました。20世紀の著作を集めたものなので、「古典」というほど古くないものも多いですが、でもまあ「古典」に近いものが多いとは言えるでしょう。
 


100冊といいながら120冊載っているのですが、結構いいリストだと思いました。といっても、自分が読んだことあるものを数えてみたら33冊しかなかったので、「お前に良し悪しは判断できんだろ」と言われればその通りなのですが、読んだことがなくても聞いたことはあったり、同じ著者の別の本は読んだことがあったりするわけで、重要なものかどうかは何となく分かる……気になっています(気がするだけかも知れません)。


この種の必読書リストで一番好きなのは、柄谷行人や浅田彰らが編集した『必読書150』ってやつですね。私はポストモダンの人たちの思想は好きではないものの、古典文献リストとしてはけっこうオーソドックスなので、事あるごとに人に勧めています。人文社会科学50冊、日本文学50冊、海外文学50冊という分け方もいい。それ以外では、古典ではないですが、「サントリー学芸賞」や「吉野作造賞」の受賞作リストは外れが少ないと思います。あとは読書猿さんの「Googleが選ぶ20世紀の名著100選」かな。


ところで、「こんなリストは無視して教科書から読むべき」という意見も一緒に(複数)流れてきたのですが、個人的には、必読書リストに挑戦しようという学生に「教科書から読め」と諭す必要はないと思っています。リストに挙がっている個々の著作について、「これの岩波文庫版は翻訳が悪い」とか「これはどうせ最初の3ページで挫折するから、こっちの解説書をみながらのほうがいい」とかアドバイスすることはあるでしょう。しかし一般論として、「古典や必読書といわれる有名な本のリスト」をつぶしていこうという気概は尊いものだし、そういう意欲をもった学生には、ぜひ「最初から」その挑戦を進めてほしいですね。


「教科書から読むべき」という人は、「学生がいきなり難しい本を読んでも理解できなくて挫折するから、教科書で基礎をつくった後で取り組むべき」と考えているのでしょう。もちろん、「挫折して勉強嫌いになったら大変だ」という懸念は理解できます。ただ、私の個人的な観測範囲だと、こういうリストに挑戦するタイプの学生は、分からなかったら勝手に解説書を当たるか、巻末の解説を頼りに解読しようとするので、ほっといても大丈夫な気がします(笑)。それに、不思議なもんですが、理解できず30ページぐらいで挫折したとしても、後々、その経験が何かの気付きにつながったりすることが、意外と多いんですよね。


実際問題、必読書リストのせいで迷惑を被ったっていう若者は、存在するんですかね?読んで分からなくても、その場合たいていは読むのをやめるわけで、4年間無意味にページをなぞり続けるわけではないのだから、大きな害はないんじゃないでしょうか。それに、そもそも今の学生って、指定された教科書とネットの解説ぐらいしか読まないタイプが大半でしょう。個人的には、授業で指定された教科書を無視し、授業自体もサボって、哲学書を読みふけっているような学生を応援したいのですが、そんな学生は明らかに減っています。教科書しか読まないってのは、それはそれで大学生活としてはつまらないわけで、だから、必読書リストというものの存在意義はむしろ、「教科書しか読まないタイプの学生」に対する啓発にあると思います。


「お前ら教科書しか読んでなくて恥ずかしくないの?」的な、マウンティングというか、スノビズムの洗礼を受けるのは、なかなかいい経験です。「ニーチェ的な…」とかつい口走ると、「ニーチェの著作で一番好きなのは?」と訊かれて、「いや、ニーチェの本自体は読んだことないけど…」みたいな*1。苦痛は苦痛で、弊害も多いのですが、最近はそういう洗礼がなくなってしまって寂しい感じがします。ただ、教員がそれをやると角が立つし、教員自身もじつは全然読破してないので(笑)、リストから無言の圧力を受けるぐらいがちょうどいいですね。ちなみに、これらのリストを読破したとしても、こんどは(海外文献の場合は)「原書マウンティング」の世界が待ち受けていますので、キリはありません。


まぁ、上記のリストの中には「いきなり読むとマジで苦痛以外のなにも得られない」ものも混じってるかもしれないので、個別に判断したほうがいいのでしょう。でも、少なくとも私が読んだ33冊は大学生がいきなり読んでも問題なかったと思うし、繰り返しますが一般論として「古典・必読書リストをつぶしていく」という取り組みには、大きな意味があるという点を強調しておきたいです。


それと、たとえばウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』やハイデガーの『存在と時間』のような本って、先に解説書を読んでいれば理解しやすいんですかね?意外と、そうでもないんじゃないでしょうか。むしろ、ちんぷんかんぷんになりながら作品そのものを読んでから、その後で解説書を当たり、さらに行ったり来たりするというのが、一番効率がいいような気がします。まぁ私はそれでも結局あまり理解できてませんが……。


また、「アリストテレスやカントやハイデガーを読む前に、教科書を読むべき」とか言われると(そもそも哲学に教科書ってあったっけという気もしますが)、なんというか、「女の子に声をかける前に恋愛の指南書を読め」というのに似た違和感があります。順序として指南書から入るのは悪くはないことも多いかも知れませんが、「このリストを読破するために、まず教科書を読もう」って、普通なりますかね?たいていの人間は、そんな悠長な段取りはできなくて、古典文献に対する興味や教養への憧れがあるなら、いきなり古典そのものを読みたいと思うのが人情です。だから、まずいきなり読んでみて、挫折するならすればいいんじゃないですかね。個人的には、そういうのが大学生活の醍醐味だと思っています。

*1:なお、部分的にしか読んでなくても、真剣に読んでいれば案外その思想家の本質は分かるので、その部分的な知識で堂々と議論すればいいと思う